イノベーション イカしたショックの受け方は万年と続く

(これは10年前のくらいのエッセイです)

 

今やスマホだのケータイだので動画が見れるんですね。DAICONもオネアミスのパイロットフィルムも全部お手軽に見れちゃう時代なもので、ついつい見ちゃう訳です。そしていまだにショックをうける自分にたどり着きます。一体全体いつまでショック受けれるんだ俺ってば!とか思います。はい。

このごろ「イノベーション」って言葉がやけに心に引っかかりまして、ついついその手の本を読んでしまう訳です。たしか「リテラシー」って言葉にひっかかった時と同じ感覚を覚えたのですが、その一言の「単語」があってくれることで、自分がもやもやと、漫然とはっきりしない気分にさいなまれている時に、「びしっ!」と言い当ててくれるかのように、その単語ひとつで、自分の思っていたニュアンスが、がっちりつかめて、「そう!その感じのことを言いたかったのよ!」ってなるときがある。ほら、「シンクロニシティ」だとか、「プリミティヴ」とかさ、日本語の単語だけじゃ、どーしてもニュアンスが生きてこないものだってあるじゃないですか。「ドッペルベンガー」とか「リビドー」とか、そんなの。そんなやつ。

冒頭に挙げた、私がショックを受けて来た作品たちが、いまだに大好きで、いまだにショックを受けられるのは、私がただ「その作品、好きなんです」っていうのとは、どーもナンダカ、違うんだよなーってずーーーっと思ってたんです。好き、とかいうノンキ大将な、余裕ガバガバなモンなんかじゃなく、もっと切羽詰まってて、もっとギリギリで、万が一それに接しないまま生きてたら、生き方そのものがてんで的外れになっちゃうはずだったものに、かろうじてたどりつけてて、必死になって食らいついていってて、ドーニカコーニカつながり続けられてて、やっとこさの思いで、ずーーーっと「一緒にいなくちゃならねーーーーーーんだっ!」と、も、ホントに力づくでそばに居続ける、居続けなければ、という執着心もりもりな真剣味をはらんでいる類いのモノなんです。
それこそ、血、肉、骨、DAICON、くらいの執拗さで、気違いじみてるわけです。
それが二つ目のセンテンスで書いてた「イノベーション」って言葉が、あまりにもぴったりだったんです。

オネアミスのパイロットフィルムも、DAICONも、私には「イノベーション」としてのショックがドデカかったのです。作品の出来、とかレベルがー、とかいう次元ではなく、「イノベーション」としてのインパクトの強さ、っていうのかな、世の中でのあり方、っていうのかな、「これくらいのくさびを、打ち込んでこいよ!」って作品たちに言われてるような気がして、いつまでも、どこまでも、ひたすら、ただ「悔しい」初心に、ドスンとたたき落とされるのだ。

「よう、ひよっこ。まだそんなところをうろうろしてるのかい?」
「もう飯喰って風呂入って寝ちまえよ。才能ねえんだから」
「全力尽くしてそんなもんしか作れないんだね。あー、残念」
って、ずーーーーーーーーっと言われてるような「高み」すら覚えるんです。悔しくって、うらやましくって、大好きで、そんなもんじゃ済ませられなくって、「今に見てろよ」って言うに言えないていたらくで、肚の底でマグマみたいに、たぎったガッツばかりが、ふつふつ,フツフツと煮えたぎっておるのです。

も、てんで楽しくって。
自分がこんなにきりきりまいに、のぼせ上がっていられる気分を維持できるものに対面して、知っているだけで気持ちが高ぶれるっていう線があるっていうのは、いいことよね。色あせないの。ちっとも。
面白いくらい、新鮮なままなの。
何年経つとか、経たないじゃなくって、自分にとって、どこまでもウフフ、アハハってものなの。それは意識して「いいものとしてやろう!」とかいう工夫や創意が全然要らなくって、どこからどう小突いてもひるまず、見劣りしないままで、心が最初に覚えた「ショック」のありように、スイとたちどころに戻れちゃう。
魔法だよ。魔法。

ipodが出た時に、まだウォークマンとかってMD版があったりしたじゃないですか。
でもあっという間に駆逐されたでしょう?アップルの上手なところは、まさに「イノベーション」のど真ん中でしたよね。ありきたりな技術を、寄せ集めて、本当は、こう楽しめるんじゃない?っていう「見え方」を教えてくれた。
メディアを売り続けたいソニーの思惑とは別の次元で、音楽が好きな人に、楽しみ続けさせるだけ、を専念させやすい機械を提示した、そこがipodの素敵さだった。
ソニーも最初の頃のウォークマンは、そういう機械だったはずだ。それが多くの人の要望を聞き、企業としての儲けが計算できるようになって、いいことしようと思ってたはずだろうけれど、ipodが出てくれるまでは、きっといつまでもipodのやってくれたことに気づけない企業のままだったと思うんよ。それがアップルのipodだったわけで。

北海道の旭川動物園もそう。新しい、見栄えのいい珍種の動物を用意するんじゃなく、「見せ方」を変えて、「楽しませ方」の、本来手の届かなかったかゆさにたどり着けた「着眼点」が
今の活況に至ったんですよね。イノベーションですやん。

任天堂のファミコンもそうですよね。DSだってそう。最新技術でびっくりさせてやろう、ってモンじゃなしに、どこまでも出来合いの技術で「楽しみましょう、どこまでも」の方に、軸足がある。スンバラシーグラフィックよりも、コテコテでもオモロイ、を大事にしてる、そっち方面の工夫に神経が通ってる。イノベーションじゃん。

まだ勉強途中のイノベーションなるものが、どうにも私にはジャストフィットな単語に思えて仕方ないのです。激しすぎるイノベーションとして、私はゼネプロの作品が脳幹に削り込まれて封入されておるのです。
ですから、作品の好きとか嫌いって次元の話ではなしに、
「ああいうショックを味わい続けたい」とか
「ああいうショックさにまみれて生きていたい」
「ああいうショックさを叩き込んでみたい」という
動機になっておるのです。結果でもり、動機でもあるのです。
それがメラメラと、ジャンジャンと、ごうごうと、炎を天まで焦がす勢いで、延々鎮火されずに過ごしていられるってんですから、そりゃ、も、幸せな、訳で。

幼少のボクちゃんがね、「将来はプロ野球選手に!」とか「社長になりたい」とかいう「アコガレ」を語る次元とも違うの。もっともっともーーっと、執拗で、断ち切れないし、あきらめの突端すらない、本当に死ぬまで嬉しいママかも、っていう不断さで「あのショックさ」に立ち返れる「水際立った感じ」こそが、わたしが預かり知ってて、人生のうち、一発でもいいので仕込み、撃ち込む銃弾なのだ。

そしてなぜか、それが理由もなしに「できる」と全く疑ってない。
そうだよ。できるって。
なぜかって?
まるまる人生、ひとつ分使ってたら、できますよ、一発くらい。絶対にね。
できないはずないじゃん。
できないで済ませるはずないじゃん。
人生一つ分のガソリン、まるまるつぎ込んでるような気分なんだよ。できねーはずがない!!!!!!

だからできるんだよ。

分かってるんだ。なにをしたらいいのか。
イノベーションってものの、愉快さって、こういうもんじゃないんですか。ねえ。