脳をスイッチしたい


 最近、脳がひどい。
 だましだましやってきたが、祖母が亡くなって以降、けっこうずっとひどい。

 楽しみにしていた「真・女神転生5」も、まったくプレイしていない。
 発売日直前にスイッチ本体を注文したことは以前書いたが、楽しみ、という空元気を維持することができなかった。

 人気のゲーム機があるのに遊ばない、という状況を、お子さまなどはなかなか理解できないだろう。
 幼いころの自分を鑑みるに、ゲームがあったらとりあえず遊ぶ、という条件反射のようなものはたしかにあった。

 おとなになると、これがなくなる。
 多かれ少なかれ、事実だ。


 優先順位や嗜好の変化。
 象徴的に語るなら、たとえば部屋の「大きなカレンダー」。

 1か月たったら、めくる。
 裏が白い、大きな落書き用紙だ。

 さほど大きなキャンバスを与えられない子どもにとっては、毎月の楽しみになりうるが、おとなになると、あたりまえだが落書きなどしない。
 なんなら、何か月も「めくるのを忘れて」いたりする。

 おとなになるというのは、日々の小さな楽しみを失っていくことだ。
 ……などと断言するつもりはない。

 日々に楽しみや喜びを見出している人々はたくさんいるし、私のほうが特殊な人間だと考えたほうがいいだろう。
 このイカレた脳みそにとって、日々は吐き気を催す苦行の割合が、まあまあ高い。

 なにもやる気にならない、という状況はだれしもあるだろう。
 それが極度に陥ると、生活に支障をきたす。

 あまり食いもせず、一日16時間眠る、というような病的な状況に一時陥っていた。
 そういう状況でも生きられること自体が幸せではあるが、そういう事態に備えた人生設計をも、あえて選んできている。

 そうしなければ、いまごろ生きてはいなかっただろう、という漠然とした確信もある。
 私の脳は、イカレているのだ。


 現在すこしはマシになっているものの、結局一日の半分、横になって陰謀論の実現を祈ったり、聖書を聴いたりしている。
 著者アッラーの『コーラン』をダウンロードして、読んだりもした。

 まったく救いにならない。
 噴飯ものの都市伝説を聴いていたほうが癒される。

 このような「生きることに不向き」な状況は、何十年来、たまにその「波」に洗われてはきた。
 だから、かろうじて確立された対症療法によって、死なずにいまでも生きているわけだが、そろそろ「終わりにしたい」気もしている。

 なにか楽しみを見出したらどうか。
 だれしもすぐに思いつきそうな解法だが、そもそも「楽しめない」のだから困る。

 冒頭に書いたとおり、楽しみにしていた新作ゲームを購入し、すぐにでも手に取って遊べる準備をしながら、手に取る気にすらならないのだ。
 部屋の片隅に、さみしげに積まれているスイッチとそのソフト。


 最近ようやく、そのスイッチの箱を開けた。
 コードをつなぎ、ネットに接続する。

 しかしまだ、新たなゲームをはじめよう、という気力が湧かない。
 新しいからこそ楽しみなんだという、子どもの気持ちがなつかしい。

 とりあえず世界のゲームなんとかいう体験版をダウンロードして、既知のゲームである大富豪をやった。
 最強難度で10連勝して、満足してやめた。

 ファミコンをダウンロードした。
 7日間無料だったのでやってみたが、1つのソフトごとに数十秒で脱落した。

 そもそも連射がだるい。
 グラディウスもスターソルジャーも、こっちはゲームをしたいのであって、連射という作業をしたいわけではないのだ。

 ジョイパッドですら16連射できるのに、なんでジョイコンはできねえんだよ……。
 ぶつぶつ言いながら、押しっぱなしでのろのろと発射する弾丸の隙間から敵に突っ込まれて、やめた。


 シューティングはもういい、つぎは魔界村だ。
 これはそれなりに楽しめたが、2面で連射しなければ倒せない敵のところで脱落した。

 やはりガンは「連射」だ。
 たぶん筋肉が弱っているのだろう、すぐ手首が痛くなる。

 そもそも魔界村は、高難易度で知られる有名な「死にゲー」だ。
 死にたくなるゲーム、という意味ではないが……。

 自分が骨になる姿を長く見つめていると精神にわるいので、ゲームを変えた。
 やっぱりマリオだろ、と満を持して「スーパーマリオブラザーズ」起動だ。

 世界のマリオ。
 これまらまちがいあるまい。

 いまも動画を観まくっているのだから、さすがにもっと楽しめるだろうと思ったが……。
 イカレた脳にとってのハードルは高かった。


 結論からいえば、1-2もクリアできずにやめた。
 私の頭がイカレているから、以外の理由を考える。

 まずは、ボタンの配置がわるい、と責任転嫁した。
 ファミコンのコントローラに、こんなに押すところなかったぞ、と。

 スイッチの右手側には、XYABやスティックなどなどが並んでいる。
 体験版のメトロイドでも学んだが、最近のゲームは多数の物理スイッチを使い分ける必要があるらしい。

 AとBの配置が同時押ししづらいので、Bダッシュするのに変な姿勢になって、やりづれえなあ、などと文句を言っていた。
 XもBとして機能することに気づいたのは、かなりの時間がたってからだ。

 こらえ性のない年寄りには、スイッチすらハードルが高い。
 大好きなスーパーマリオにおいてすらこの始末である時点で、私の脳がどれだけイカレているかがお察しいただけよう。


 レトロゲームすらも、まともにプレイできない、この現実。
 こんなおっさんに、新作RPGなどプレイできるだろうか?

 最後に待ち受ける、シュリンクがかかったままの「真・女神転生5」を見つめる。
 おそろしい……。

 あれほど楽しみにしていたのに。
 なぜだろう、そこにあることが、おそろしい……。

 もちろん、ただのゲームだ。
 はじめたら、たぶん楽しめるのだろうとは思う。

 だが、ゲームをやるまえに、やっておかなければならないことがあるのではないか、という気持ちから逃れえない。
 3月までに小説を1作、仕上げると決めていたはずだ。

 内容はもうできている。
 あとは……書くだけだ……書くだけ。


 それができない。
 2か月も、できないでいる。

 祖母が死んで以来、どこかのネジが外れた。
 祖母のせいにするつもりはない。

 脳がイカレているせいだ。
 こんな腐れた脳で、いつまで生き恥をさらすつもりか?

 そろそろ生きる理由も少なくなってきた、と自覚はしている。
 じゃあ死ねば?

 もちろん遠からず死ぬが、そのまえに書きたいものが、いくつかある。
 こんな腐れ脳でも、それを仕上げてから逝きたい気持ちが、ないわけではない。

 むしろそれを仕上げたら逝っていいか、という諦念のようなものを、生存本能がねじ伏せた結果としての無気力なのではないか、という逆説的な思いもある。
 書き終わったら死ぬ、ほんとは生きたい、だから書かない……。


 そんな寝言をほざく自分自身がいやだ。
 そう、このイカレた脳が、あらゆる苦悩の元凶なのだ。

 いま、充電完了したまま数日放置されたスイッチを眺めながら、この文章を書いている。
 狂人の明日はどっちだろう……。
 

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