ファミリーコンピュータを愛す・その23

「燃えプロ」に関しては今更語る事もないとは思うが、当時はファミコン初のリアルタイプな野球ゲームという事もあって、ファミマガなどではそれはそれは大プッシュされていき、計13球団のデータが載った別冊の付録までが付随していったほどである。当時まだ野球に疎かった私は、これで現役そしてOB選手の名前を覚えて行ったものだった。

 

おそらく、燃えプロが当時の子供たちに残した最大の功績はこれではないかと思う。当時、巨人戦の中継は当たり前のように毎試合生中継がなされていたが、反面パリーグの試合は地方ネットで見る事ぐらいしか出来なかった。日本では選手名鑑を買うほど熱心なファンは多くもないので、その結果ジャイアンツの選手ばかりが有名、となっていった訳であるが、よって初めて12球団を実現させた燃えプロによって、それ以外の球団にも興味を抱いた子供たちは多かったのではないかと思う。

 

特に、当時は西武黄金時代の只中であり、球界の盟主の座を奪うためあらゆる手段を使ってまで巨人に対抗していた頃の話である。その影響により、ようやくパリーグにも陽が当たり始めた頃でもあったから、ファミコンの野球ゲームブームは大きな後押しをしてくれたのではないかと思う。少なくとも、燃えプロがなければ私が野球に興味を持つのも少しは遅れていたかも知れないほどだ。

 

ゲーム内容的にはクソ以外の何物でもなく、特に私が買ったバージョンだとフライが上がっても帰塁する事ができず、タッチアップが不可能だった。のちに他人の家でプレイした時、普通に帰塁出来ていたので、ようやく自分のがおかしい事に気付いたものだが、バントでホームランとかよりもその件の方がよっぽど困った案件だったものだ。

 

しかし、そうであったとしても、当時はそれなりに楽しめたものだった。1試合が40分ぐらいかかってしまうので、そう何試合も1日に出来ないのが玉に瑕であったものの、ファミスタとはまるでゲーム性が異なる新鮮さもあって、真面目にペナントモードをやり込んでいったものである。ただ、世の中の大半の人たちはそうではない事は間違いなく、私より先に買った近所の方々も、購入と同時に即効売り飛ばしていったほど、世の中には中古が溢れて行った。そして、世の中に中古屋や、ファミコン専用のショップが誕生していったのも、おそらくこの頃ではなかったかと思う。

 

そして、7月と言えばすでに恒例となった「ハドソン夏のキャラバン」である。しかし、この年はギリギリまで公式ゲームの紹介がされず、ゲームの発売自体もキャラバン直前となってしまったかと思う。そのゲームとは、撃ちまくり連射命だった前2作とは異なり、アーケードのように細かい戦略を必要とする「ヘクター87」というゲームだった。

 

 

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